別称: Eating God
食神(しょくじん)とは、四柱推命(八字)の十神(通変星)の一つで、日主が生じ、陰陽が同じものをいう。
食神とは、日主が生じ、かつ陰陽が同じ五行を指す——たとえば甲(陽の木)の日主にとって、丙(陽の火)が食神である。「流れ出るもの」を表し、言葉、芸術、子女、飲食など、生命力が自然に生み出すものがこれにあたる。
食神が位を得ていれば、落ち着いた自信、文芸・教育・料理・創作の才、衣食の豊かさ、子女の福を主るとされる。食神が旺じすぎれば散漫あるいは安逸に流れ、弱すぎれば創造力が阻まれ、自然に表現することが難しくなる。
官殺を貴しとする枠組みのなかで、食神は権威に依らず、自らの流し出すものだけで一つの格を成しうる数少ない十神(日本の四柱推命では通変星と呼ばれる)である。旧説はこれに寿星の類の別称まで与えており、古人の評価がかなり高かったことがうかがえる。名の由来については、古くから二つの説が並び立ってきた。一つは得食の義を取るもので、日主が生ずるものであって逆らわないため、衣食が自ずから来るとみる。もう一つは、食神が七殺を制しうるがゆえに、日主が剋されることを免れ、その禄を安んじて享受できるとみる。どちらの説を取るにせよ、食神を、食べることが好き・口福に恵まれるといった程度に読むのは、食神を小さく読みすぎである。飲食は「生ずるもの」の最も具体的な一つの象にすぎず、本当の核心は日主が外へ流し出す能力のほうにある——言葉、作品、子女を育てること、他者を世話することも、すべてそこに含まれる。
食神を判ずるには、まず根があるか、そして行き先があるかを見る。食神が天干に透り、地支に根を持っていれば、その流れは初めて安定する。才芸が持続し、表現に節度があると読む。透るだけで根がなければ、多くは一時の思いつきの閃きにとどまり、事を成しにくい。次に行き先を見る。食神の先に財星が続いていれば食神生財であり、才能が実際の収入へ変わる。その先に制すべき七殺があれば食神制殺であり、才能がそのまま身を守る技となる。行き先のない食神は、往々にして口腹の欲と慰みごとに落ち着くだけで終わる。それゆえ食神が多いことは才能が多いことと同じではない——根もなく行き先もない食神は、その多くがただの消耗である。
食神と傷官はともに日主が生ずるものであり、違いは陰陽ひとつだけだが、その性情は大きく分かれる。陰陽が同じものは気が順で、流れ出るときに衝突を伴わない。それゆえ食神は、ゆったりとして穏やか、表に出ることを急がないと読まれることが多い。陰陽が異なるものは気が逆で、流れ出るときに角が立つ。そこで傷官は鋭く、攻撃的に見える。ただし穏やかという評言を額面どおりに受け取るべきではない。食神制殺の局は性情がきわめて剛毅であり、ただその強さが表に現れないだけで、技芸によって圧力を抑え込むという道を行く。古人は才能の高下を論ずるときには傷官のほうが優れると言うことが多く、安定と持続を論ずるときには食神のほうが耐えると言う。実務のうえでは無理に優劣を分ける必要はなく、要は命式が必要としているのが鋭さなのか、それとも持久力なのかにある。
食神が最も恐れるのは偏印である。偏印は日主を生ずるから一見有益に思えるが、まさに日主が生ずる食神を剋してしまう。伝統ではこれを梟神奪食と呼ぶ——才能が、尽きることのない懸念、疑心、そして過剰な思考によって出口で堰き止められるのである。この組み合わせについての古書の断語は、計画は多いが形になるものは少ない、機会が目前に迫ると土壇場で退いてしまう、飲食と起居が乱れる、といった事柄に及ぶことが多い。これを解く法として古法が多く取るのは財星である。財は印を制しうるから、印が制されれば食神は再び流れ出せる。食神生財が重んじられるもう一つの理由が、ここにある。
旧書は二つの点でいまなお折り合いがついていない。第一は食神と傷官のいずれが優れるかである。一派は、食神は純粋で長く保ちうるが、傷官は秀でてはいても禍を生じやすいとみる。もう一派は、成就の高さを論ずるなら傷官が遠く勝り、食神は平淡に過ぎるとみる。第二は、食神制殺と食神生財のいずれを先とするかである。格局によって用を取る者は、月令と命式の病薬に依って定めるべきで、あらかじめ優劣を分けはしないと主張することが多い。財官に重きを置く読み方では、殺に遇えば必ず制殺を先とする。梟神奪食が必ず凶であるかどうかについても、偏印そのものに制があるかどうかをまず見るべきだとする、より穏やかな説がある。
伝統に統一した答えはありません。気質の面から言えば、食神は日主と陰陽が同じで流れ出るさまが平らかなため、ゆったりとして持続しやすいと読まれることが多く、傷官は陰陽が異なって流れ出るさまに鋭さを伴うため、才能が外に現れて落ち着かないと読まれることが多いとされます。一派は食神の純粋さを重んじて長く保ちうるとし、もう一派は傷官の秀でたところを重んじて成就の高さはこちらが上だとします。実務では優劣を比べるよりも、命式に足りないのが持久力なのか突破力なのか、そしてその流れを受け止められるものが先にあるかどうかを見るのが普通です。両方とも欠けている場合は、また別の話になります。食神と傷官は日主が外へ流れ出すための通路ですから、どちらも無いということは、命式にあらかじめ用意された出口が無いということです。伝統的な読み方では、表現が得意でない、考えを内にためこんでしまう、才能が外から見えにくいといったことが挙げられ、同時に日主がやや旺じていれば、行き場のない力のために落ち着かなくなりやすいとも言われます。これは才能が無いことを意味するのではなく、内にあるものを外のものへ変える段階が欠けているということで、行運が食神・傷官の地に入れば、その期間はこの通路が開くのが通例です。
梟神とは偏印のことです。偏印は日主を生じますが、同時に日主が生ずる食神を剋してしまいます。伝統ではこれを奪食とみなし、外へ出てゆく管が出口で塞がれた状態だと読みます。古書の断語は、構想は少なくないが形になるものは少ない、土壇場で退いてしまう、生活のリズムと飲食が乱れる、といったところを指すことが多いです。古法ではしばしば財星を取って解きます。財は印を制しうるので、印が制されれば食神は再び流れ出すようになります。実際の軽重は、偏印が月令を得ているかどうか、命式に用いうる財星があるかどうかを見て判断すべきで、偏印を見ればただちにこう論ずるというものではありません。
時柱は子女と晩年を主りますので、食神がここに落ちる場合、伝統では二つの面から読むことが多いです。一つは子女との縁と養育における順調さ、もう一つは晩年に身を置ける趣味と技芸があり、生活が寄る辺のないものにはならないということです。時柱の食神に根があり、さらに財星に逢っていれば、晩年に才芸から実利を生み出す方向で見ることが多くなります。逆に同じ柱に偏印が来て奪う形であれば、判断は晩年に思うことは多いが成るものは少ないという方向へ転じます。いずれにせよ全体を合わせて見るべきで、一柱だけを取って断ずることはできません。
食神の気が下って財星へ受け継がれ、日主が食神・傷官を生じ、食神・傷官が財を生ずるという一筋の順流ができることを指します。伝統ではこれを比較的理想に近い財の道とみなします。お金が争奪によってではなく、本人の腕前、作品、あるいはサービスによって自然に得られるからで、古書の言い方も、浮ついたものではなく持続的なほうへ傾きます。成立の条件は、食神に根があり、財星にも根があること、そして両者の間を偏印に遮られないことです。食神が浮いていたり財星に力が無かったりすれば、この連鎖は形のうえで見栄えがするだけのものにとどまります。